Pacific Bridge代表の浅井です。
3月に入り、急に暖かくなってきました。
梅林公園の梅も随分と散ってしまいました。
もう少しすると、小さな青い梅の実が見えてくるはずです。
さて前回の投稿記事では、母から国外追放されたお話をしました。
当時若干19歳。 日常会話もままならず、単身オーストラリアへ渡ることになったのです。
※前回の記事はこちら
今回はこの続きをお話したいと思います。
ホストファミリーと初対面
オーストラリアでは、シドニーの西に位置するブルーマウンテンズ市のKatoombaという町にある英語学校に通うことになっていました。
また、ホームステイ先も、半年間の留学の前半と後半で違うホストファミリーにお世話になることになっていました。
後半にお世話になるホームステイ先は、私と同い年の従兄の友達が以前ホームステイしていたお宅でした。
どのように辿り着いたのかあまり覚えていませんが、無事ホストファミリーの住むHazelbrookに到着し、駅まで迎えに来ていたホストマザーと対面しました。
昼前だったので直ぐにランチとなりましたが、なんとそのランチが汁なし具なしのラーメンで本当に驚いたのを覚えています。
夕食時に家族や同居人の方々と顔を合わせましたが、ホストマザーとファーザーの他に、息子が2人(娘も二人いたが、別居)、同居人の男性が2人、そしてもう1人の日本人留学生(女性)と、私を含め総勢8人の大所帯だということが分かりました。
夕食のメニューは忘れましたが、そこで出されたデザートは作りたての湯気の立っているカスタードで、好き嫌いのない私でも食べきることは出来ませんでした。
覚悟を決める
同じ英語学校に通う日本人がホームステイ先にいたため、色々な心配事がなくなりました。
その英語学校はホームステイ先から電車で約20分のKatoombaという町にあり、クラスが3つしかない小さな学校でした。
クラス分けのテストではもちろん一番下のクラスに振り分けられ、半年間で必ず一番上のクラスまで上がろうと心に決めたのでした。
成長を促す恵まれた環境
到着初日に衝撃を受けた食事以外は、当時特に文化の違いというものは感じませんでした。
特に怖い思いをしたこともありません。
言葉の壁はもちろんありましたが、英語学校での授業が思いのほかとても厳しく、そして留学の後半にお世話になったホストマザーも、「部屋に籠もっているなら私と話しなさい!」と、一生懸命私と接していただいたおかげで、半年間の間に日常会話なら支障なくこなせるようになりました。
その他直面した壁というものも特になく、あえて言うと軽度のホームシックぐらいだったと思います。
そんな時は、Katoomba郵便局横の公衆電話からコインを追加しながら日本に電話していました。
人生を変える素敵な出会い
留学の後半にお世話になったホストファミリーは、夫婦2人と離れにおばあさんが住んでいるという構成で、金銭的にかなり余裕がある家庭でした。
私の部屋も以前の倍以上の広さになり、シャワーとトイレの付いた洗面所とウォークインクローゼットまでありました。
娘2人と息子1人も独立しており、彼らの職業からとても学問的に優れた人達だということが分かりました。
オペラハウスでのオペラ鑑賞やキャンベラ旅行、ブルーマウンテンズならではのブッシュウォーキングや多くの人との交流を通じ、英語でのコミュニケーション力を磨き、多くの刺激を得ることが出来ました。
彼らに出会っていなければ、オーストラリアの大学への進学を考えなかったかも知れません。
よって、彼らとの出会いが私の人生をより良い方向に大きく変えたことになります。
オーストラリアへ必ず戻ると心に誓う
留学後半ともなると、ホストファミリーの力添えはもちろん、英語にも随分と慣れてきましたので、近所の方々とのテニスやバレーボールも始めました。
散髪も2、3時間かけて日本人美容師のいる美容室まで行っていましたが、隣町にあるホストマザーお勧めの美容室に変え、どんどんと現地での生活に慣れていったと思います。
留学は6月から12月まで、帰国後は再度大学受験を予定していたのですが、帰国前にはオーストラリアの大学に進学する方向に心が向いていたと思います。
日本帰国前日は、シドニーに住むホストマザーの姉の家で一泊させてもらいました。
ホストファミリーとの別れの時には、皆で涙したのを良く覚えています。