Pacific Bridge代表の浅井です。

梅雨入りしましたね。今日は晴れてはいますが、ジメジメ感がすごいです。

この季節と言えば、アジサイ。我が家にある地植えと鉢植えのアジサイとも、満開になっています。

ホタルのニュースもちらほら聞きますが、今年は来年高校を受験する息子を抱えているし、息子たちの習い事を変え送迎が大変になったし、迷うところです。

念願の法律学部へ入学

さて、前回までのお話ですが、シドニー大学教養学部でのハードな授業にくじけることなく必死に食らいついたことで夢が叶い、念願であった法律学部へ入学できることになりました。

前回までの話は、こちらから↓↓

【行動すれば結果が変わる】目標であった法律学部へ合格 #4

法律学部へ入学したものの日本人は、私一人だけ。私の知る限りでは、当時法律学部や医学部を卒業する学生は、第一学位と第二学位の2つの学位(いわゆる「複合学位(Second Degree)」)を取って卒業することが求められていました。

そのため、私の在籍するGraduate Lawコースの学生は、年齢層も幅広く、社会経験のある人も大勢いました。国会で速記者として働いていた人や元オペラ歌手なんていう人もいました。速記の出来る学生は、教授が話す一言一句をノートに書き留め、うらやましく思ったのを覚えています。

法律学部生の超ハードな現実

当時の私は、録音機で講義を録音し(現在講義を録音することが許されているのかは不明)、自宅でそれを聞き直して聞き取れなかった部分をノートに書き足していくという地道な作業を繰り返すことに…。講義で使用するテキストのページ数は膨大で、その他判例や法律をも読み込む必要があったため、自宅と大学の講義室と図書館を行き来するだけの生活となりました。

母国語が英語でない私にとっては、1920年代や30年代の判例や法律(古いものは1800年代)を読むことは苦痛以外のなにものでもなく、大変な思いをしながらも、ここで諦めて日本に帰国出来ないと、必死に食らいつく努力をしたのでした。

教授達には厳しくも優しくご指導いただきました。彼らの助けがなかったら、卒業出来ていなかったかもしれません。本来ならお会いしてお礼を言いたいところですが、コロナ禍でもあるし、残念ながら亡くなられてしまった教授達もいるということで…、心の中でいつも感謝しています。

地獄のような期末テスト

成績評価は、期中に提出する3,000~4,000字の論文と期末テストで行われました。論文については、まずは与えられた問題(トピック)に関する何十冊もの本をサーチし、借りたり必要な部分をコピーする準備から始めました。そして、盗作にならないよう十分注意しながら自身の見解を書いていくという、大変な作業でしたが、今では古き良き思い出です。

言うまでもなく、期末テストの範囲も膨大でした。判例等全てを暗記することは不可能なため、テキストやノート持込可のOpen Book Examという形式で行われました。テストのためだけに使う要点をまとめたノートを作ったりと、テスト前はより多くの労力を要し、そして絶え間ない緊張にさらされていました。

英語を母国語としない留学生だからといって採点時に特別な配慮があるわけではないので、結果が構内に張り出される際には心臓が口から飛び出す気分でした。

無事に法律学部を卒業

山あり谷ありの法律学部での生活でしたが、自身の努力と忍耐力、そして教授や友のおかげで無事卒業までたどり着くことができました。

ただ、「僕は法律より政治に興味がある!」とか、「難しすぎる。」などの理由で、現地の学生でさえ大勢自主退学していってしまったので、卒業時の顔触れは入学時のそれとは随分と異なってしまっていたことが残念でした。

英語が母国語だからと言って、簡単ではないですよね。卒業式には日本から母と当時80歳の祖母も参列し、とても思い出深いものとなりました。